正祖と芸術
教授に卒論指導を受けていた時のこと。教授は「文学に限らず一見無駄に思えるものを排除してきた国に未来はないということは、歴史が語っているからね」と仰った。
昨今の大学改革で文学部の廃部が推し進められる日本ですが、世界的に見ても文学研究が疎かにされるさんてことはほとんどないわけです。文学も歴史なのですから。
世から一見無駄だと思われることが実は世の中を作っているという事実は、朝鮮の身分制度の過渡期について見ていくことで感じることができると思います。
○朝鮮後期の身分制度
両班といえば、勢道政治。しかし反対に老論の長期政権により政権から退かれた両班たちは、自ら農作業を行うなど威厳を落とすことになりました。
身分制度と言語能力の結びつきは言うまでもありません。庶民の意識の向上は、ハングルの普及が大きく関係しています。当然それに伴って庶民の知的水準は高まり、庶民文化も発達するようになりました。
中人層(特殊な技術をもった下級役人)の成長も身分制度に大きな変化をもたらします。通訳官たちは清との接近を機に見聞を広め、医官や画員は専門的見識で、その他の役人は行政的能力や文学的素養で社会的地位を高めようとしました。
絵や書などの芸術文化が特に開花したのは、正祖時代と言われています。士(ソンビ:学識や礼節のある人物の総称)の間では絵や書に関心があっても、そういう素振りを見せないことが美徳とされたようです。王室では世宗、英祖、正祖などが絵を愛でたとされており、その中でも歴代の王で一番多くの絵を残したのは正祖なのです。彼は自ら筆をとり絵や書の魅力を語ったと言います。
図1 梅花図
図2 手紙
図1の「梅花図」という作品は正祖が47歳の時に書いたと推定されています。イビョンフン監督の「イ・サン」でも梅の花の絵は度々登場しますよね。図2の手紙は、正祖(8歳頃)が外叔母宛にハングルで書いたものと言われています。この時代に才能を発揮した画員はたくさんいるそうで、それは中人全体にとっても大きなことでした。
奴婢も常民も中人も教養を身に着けたものは身分を詐称して生き延び、やがて奴婢の人口は少なくなりました。こうして1801年、ついに奴婢の解放令が出ます。正祖が亡くなって一年後のことでした。
数多くの改革を行ってきた正祖が芸術をどのようにとらえ必要と感じていたのか、あるいは必要か否かだけで判断することに疑念を抱いていたのかもしれませんね。
次回、ハングルを創制した4代・世宗と諡(おくりな)について考察します。
〇参考文献
・『自分はバカかもしれないと思ったときに読む本』
・『朝鮮王朝500年の舞台裏』(「王の名前を見れば臣下の思惑が分かる」より)
・『韓国の入門歴史 国定韓国中学校国史教科書』
・『韓国ドラマで学ぶ 韓国の歴史』
・『ソウル歴史めぐりは「イ・サン』巡りの旅』