ドラマの魅力

韓国時代劇をはじめとするお気に入りのドラマについて、感じたことを書いてます。

三人の女性

 高校野球シーズンになると朝から夕方までテレビを独占しだす父が憎かった。ある日、憎むのがしんどくなって、自分が野球好きになる方が楽な気がしてきた。私が10歳の頃の話だ。
   父に頼んでルールを教えてもらった。短気な父に、覚えが悪い私。最悪の組み合わせだったが、試合を見ながら、基本的なルールからタッチアップやインフィールドフライなどのイレギュラーなルールまで、少しずつ理解していった。
    ルールを理解してから、野球を好きになるまでは早かった。アニメ『メジャー』清水薫の影響で自分も野球を初め、スコアの付け方も覚え、高校野球も毎年観に行った。f:id:ht06kane060912:20170816142104j:plain

 

 

 その頃、同時にバレーボールにもハマった。たまたまテレビで全日本女子の試合を見て、詳しいルールは知らなかったが(今でもあやふや)、ここまでの身長差がありながら、ひたすら拾って繋いで、数少ない攻撃のチャンスをものにする姿に興奮した。中でもリベロ佐野優子がきっかけで、女子バレーにはまったと言っても過言ではない。
  次の日から、カレンダーに「vsロシア」「vs.ブラジル」など予定を書き込むようになり、その下には「1-3●」など試合結果も書き加えた。母にバレーボールが面白い!と伝えたら、昔母も実業団の試合を友達と観に行ったり、テレビ中継をよく見ていたことを聞かされ、バレーを好きになったのは母の遺伝かと、嬉しく思った。

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 高校にあがったくらいからは、バレーボールの方が好きで、あれだけ夢中で応援していた阪神タイガースも知らない選手が増え、高校野球も炎天下がしんどいと行かなくなり、スコアの付け方も忘れてしまった。
   そして、去年あたりからは韓国ドラマに目覚め、録画漏れがないか放送日時を気にし、バレーボール中継が間に入って上手くドラマが録れていなかった時にはため息までつく。

 もちろん野球やバレーボールも好きなことには変わりないけど、人は変わるんだなぁ、と自分のことながらどこか寂しく感じる時がある。しかし逆に考えれば、『チャングムの誓い』を初めて見たのも小学校5年生の頃で、野球にバレーにチャングムと、今の自分が好きなもの全部、この時期に出会ったものだ。その時々夢中になる比重は変化しても、趣味嗜好はそうそう変わらないものなのか、と自分の好きな物について振り返っていた。

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 大学ではしんどい、しんどいと呟きながら論文を書き、書き終わるとさして間を空けることなくブログを更新する。スコアを付けたり、カレンダーに試合結果を付けたり、Twitterで名言をまとめたり、結局、私は昔から記録することが好きなのだな。 

 

 

 

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頭の整理

 ドラマを見ていてふと思いついた、架空の話をします。なので、以下に書かれている内容自体は、フィクションです。特定の人物を指しているわけではありません。

↓↓↓

 日本人俳優のAは、本社がアメリカのファーストフード店「D」のCM依頼を断った俳優Bのことを称賛した。するとアメリカ人は"AとBは反米だ"と叩いた。...実はBがCMを断った真の理由は、ベジタリアンの思想に反するからだったのだが、ファーストフード店「D」をはじめ、多くの食品関連の企業の圧力を考えると当然それは発言できなかった。
 記事にはBがCMを断ったこと、それをAが称賛したという事実しか載っていない。その記事から"反米の日本人"と受け取るかどうかはアメリカ人次第。
 情報網がいくら発展しても、真意は本人に聞くことでしか知り得ないだろう。また特に海外の記事は、内容以上の意図が付け加えられて輸入される。
 AとBの発言全てがアメリカで報道されているわけではないのに、なぜこのCMの話は選択され、海を越えたのか。

P.S.
 その後彼らは、真の理由が伝えられないなら、せめて反米でないことをアピールしようと、時々プライベートで渡米したらしい。

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六龍が飛ぶ 48話まで観ました。

 イ・ソンゲが王位についた48話を区切りに、少し前の話を振り返ってみます。今回は主に「海東甲族」と「無名」についてです。少しばかりお付き合いください(^^)

 疑問①海東甲族はなぜ500年の歴史の中で政治の犠牲にならなかったのか。

 海東甲族は、政治には口出しせず平和に暮らしてきた有力な貴族集団でしたが、ミン・ジェの娘タギョンとバンウォンの政略結婚によって、新たな歴史が開かれました。

 しかし、海東甲族がそんなに力を持っているのなら、ホン・インバンバンウォンが目を付ける前に、無理やり政界に引き込まれていてもおかしくないのでは?と思っていました。

 そこで、私のドラマメモを見直してみると「17話、六山先生…海東甲族の長」と書かれているではありませんか。

 六山先生の名が初めて登場するのは17話ですが、その時繰り返し名前が登場するのです。ミン・ジェの「六山先生のような洞察力はありません。」「うちの娘は六山先生より鋭いな」やチョンニョンの「六山は海東甲族の首長ですね」などです。

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 当時は六山先生って尊敬されている海東甲族の長なのね、ぐらいにしか思っていませんでしたが、海東甲族の長である六山は、国を操る組織「無名」の一員だったことが分かりました。当然「無名」のチョンニョンも知らない振りをしているということですよね。もしかすると六山だけでなく、代々東海甲族には「無名」がいたかもしれません。だから守られていたのだとすると納得がいきます。

 海東甲族は、バンウォンに「胸を痛めても行動しない歴史の傍観者」であることを責められましたが、私も含め多くの人間は海東甲族の生き方なのではないでしょうか。「六龍が飛ぶ」は、いたる所で視聴者に揺さぶりをかけてくるドラマだと思いながらいつも省察的に観てたりもします。

疑問②無名の思想

 では「無名」の存在意義とは何なのか。もちろんドラマで語られていることを今更私が書いても無意味なので省きますが、改めて視聴者である私が「無名」を考えた時、まるで現代社会の在り方を具現化したような組織だなと感じました。

 「人々は欲望のままに躍起になって荒れ地を開拓しました。その結果、農地は飛躍的に増え、国は豊かになったのです。」「人間は利益を追い求めるため、苦痛にも耐えるもの」このような主張は一理あると言えるでしょう。

 普段の私たちも大なり小なり欲望に負けて生きていますよね…。最初は得体のしれない組織だと思っていましたが、多くの視聴者が海東甲族の立場である現実のように、無名もまた私たちと無関係ではないところが脚本の憎いところです。

 そして無名の長ヨニャンは、言葉とは裏腹に母としての立場を捨てきれていないようなので、これから無名はどういう結末を迎えるのか気になります。

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『冬のソナタ』~象徴性について考える~

〇おすすめ本

 今回皆さんにおすすめしたい一冊は、『『冬のソナタ』に見られる「社会」と「個」の相克 登場人物の役割を中心に』です。この本は2013年、冬のソナタから10年という節目の年に出されました。『冬のソナタ』を見た人が楽しめるのはもちろんのこと、一般的な物語分析にも使える知識が沢山詰まっています。この本はタイトルの通り、冬のソナタという物語は「社会」と「個」という対立構造を軸に出来ているという主張を基に進められています。その主張の一環で語られるポラリス」と「車」の象徴性や最終回の季節が「冬」でない理由など、興味深い考察が盛りだくさんの一冊でした。以下より、その二つの考察を中心に(私の解釈も入れながら)紹介していきます。 

・「ポラリス」と「車」

 『冬のソナタ』では、チュンサン(男)、ユジン(女)、サンヒョク(男)、チェリン(女)が主要人物で、結末から言うとチュンサンとユジンが結ばれるドラマです。

 何気なく見ていると気にならないことですが、ユジンは主要4人の登場人物の中で「車」を持っていない唯一の人物です。他の3人は運転シーンが頻繁に描かれるのですが、彼女の場合、移動手段が車で送ってもらうか、バスなどの交通機関を利用するまたは自分の足で歩くしかないのです。ユジンが仕方なくタクシーを拾って帰宅するシーンも何回かありましたね。ユジンは、交通機関で決まった道(学校や職場)を往復する生活で、自分の車で遠くまで移動できないのです。だからこそユジンは人から見つけられやすい目印的存在=ポラリス北極星なのかもしれません。ユジンは自分の設計会社を「ポラリス」と名付けます。ポラリス北極星)は道に迷ったとき目印になる星です。ユジンが「車」を持たないという設定が意図的であると仮定すると、ポラリス同様「不動」のイメージを作り上げているのかもしれません。

 ちなみに、チュンサンがユジンにあげたポラリスのネックレスは、ユジンの意志とは関係の無いところで壊れたり、最終的にはチュンサンによって海に投げ込まれたりとサンヒョクがあげた婚約指輪のような絶対的で確かな物ではありませんでした。このことは、最後に二人をつなぐのは「物質」ではなく目に見えない「心」であったと考えることもできるのではないでしょうか。 

・最終回の季節

 冬のソナタでは、冬らしく「雪」が重要な役割をしています。初恋のモチーフであることはもちろん、このドラマにおける「雪」には「現実を覆い隠す」働きがあると著者は言います。例えば、スキー場は2人にとって現実逃避の場所でもあったからです。

 ではなぜ、最終回の季節が冬ではないのでしょうか。これまで視聴者にとって「雪」は、二人の関係に外せない象徴的なものだったはずです。最終回では二人の間に雪はありません。現実を覆い隠す「雪」の存在の必要性がなくなった、つまり二人の永遠性が現実のものとなったことを表しており、だから最終回はあえて雪の降らない季節を選んだのではないでしょうか。最終場面では、「雪」もなければ、「ポラリスのネックレス」もありません。そこにあるのは目に見えない二人の「心」だけ…。

 失明したチュンサンが気配でユジンに気付き再会を果たしたところで物語は閉じられます。最近の現代ドラマでここまで「切ないハッピーエンド」も中々無いのではないかと思っています。

 この春は、同監督の四季シリーズ『春のワルツ』も見ていくつもりです。この作品にも『冬のソナタ』のような繊細な音楽や、水彩画のような美しい情景描写があることを期待しています。

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追立祐嗣(2013)『『冬のソナタ』に見られる「社会」と「個」の相克 登場人物の役割を中心に』花伝社

*太字は個人的な解釈です。

正祖と芸術

 教授に卒論指導を受けていた時のこと。教授は「文学に限らず一見無駄に思えるものを排除してきた国に未来はないということは、歴史が語っているからね」と仰った。

 昨今の大学改革で文学部の廃部が推し進められる日本ですが、世界的に見ても文学研究が疎かにされるさんてことはほとんどないわけです。文学も歴史なのですから。

 世から一見無駄だと思われることが実は世の中を作っているという事実は、朝鮮の身分制度の過渡期について見ていくことで感じることができると思います。

○朝鮮後期の身分制度

 両班といえば、勢道政治。しかし反対に老論の長期政権により政権から退かれた両班たちは、自ら農作業を行うなど威厳を落とすことになりました。

 身分制度と言語能力の結びつきは言うまでもありません。庶民の意識の向上は、ハングルの普及が大きく関係しています。当然それに伴って庶民の知的水準は高まり、庶民文化も発達するようになりました。

 中人層(特殊な技術をもった下級役人)の成長も身分制度に大きな変化をもたらします。通訳官たちは清との接近を機に見聞を広め、医官や画員は専門的見識で、その他の役人は行政的能力や文学的素養で社会的地位を高めようとしました。

 絵や書などの芸術文化が特に開花したのは、正祖時代と言われています。士(ソンビ:学識や礼節のある人物の総称)の間では絵や書に関心があっても、そういう素振りを見せないことが美徳とされたようです。王室では世宗、英祖、正祖などが絵を愛でたとされており、その中でも歴代の王で一番多くの絵を残したのは正祖なのです。彼は自ら筆をとり絵や書の魅力を語ったと言います。

図1 梅花図

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図2 手紙

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  図1の「梅花図」という作品は正祖が47歳の時に書いたと推定されています。イビョンフン監督の「イ・サン」でも梅の花の絵は度々登場しますよね。図2の手紙は、正祖(8歳頃)が外叔母宛にハングルで書いたものと言われています。この時代に才能を発揮した画員はたくさんいるそうで、それは中人全体にとっても大きなことでした。

 奴婢も常民も中人も教養を身に着けたものは身分を詐称して生き延び、やがて奴婢の人口は少なくなりました。こうして1801年、ついに奴婢の解放令が出ます。正祖が亡くなって一年後のことでした。

  数多くの改革を行ってきた正祖が芸術をどのようにとらえ必要と感じていたのか、あるいは必要か否かだけで判断することに疑念を抱いていたのかもしれませんね。

  次回、ハングルを創制した4代・世宗と諡(おくりな)について考察します。

〇参考文献

・『自分はバカかもしれないと思ったときに読む本』

・『朝鮮王朝500年の舞台裏』(「王の名前を見れば臣下の思惑が分かる」より)

・『韓国の入門歴史 国定韓国中学校国史教科書』

・『韓国ドラマで学ぶ 韓国の歴史』

・『ソウル歴史めぐりは「イ・サン』巡りの旅』

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ドラマで国語!

 先日、大河ドラマ「おんな城主直虎」の第12話を観ました。最愛の直親を失った直虎に向かって、和尚はこのような慰めの言葉をかけます。

「己を責めたとて、死んだ者は返らん。じゃが、生きている者は死んだ者を己の中に生かすことはできる。例えば偲ぶことで、例えばならうことで。時にはならわぬことで。他にはないかのぅ…」

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 和尚の声で何度もこのセリフを脳内再生している時、ふと思いました。このセリフを文字に書き起こすとしたら、「いかす」「しのぶ」「ならう」をどの漢字で、あるいはどのように表記するだろうか…と。上記に示したものは迷いながらも最初に私が頭に思い浮かべた表記です。特に迷ったのが「ならう」です。「習う」か「倣う」かで迷ったのでとりあえずひらがなにしておきました。

 以下は、同音異義語をそれぞれ辞書で引いて違いを明らかにしたものです。

 ・忍ぶと偲ぶ

忍ぶ…つらいことをじっとこらえる。耐える。我慢する。

偲ぶ…遠く離れたものや物事を感慨深く思い起こす。遠く思いをはせて懐かしがる。

 文脈からみても「偲ぶ」が適切だろうと思います。

 ・習うと倣う

習う…知識・技術などの教えを受ける。教わる。また教わったことを繰り返し練習して身につける。

倣う…すでにある物事をまねてその通りにする。手本としてまねる。

 これが微妙な違いだと思うのです。文脈的には、時には亡くなった人から学び、時には反面教師として真似しないといった意味になるのではないでしょうか。そうだとすると、最初の「ならう」は「習う」で、二つ目の「ならう」は「倣わず」と表記することもできるかもしれません。

 ・生かすと活かす

 辞書で「いかす」を調べると、これも辞書によって違いますが、『明鏡』では生かす(活かす)と表記されています。ではどちらも一緒なのでしょうか。補足説明を読むと、役立てる、特性を引き出して生き生きしたものにするなどの場合は「活かす」が好まれるそうです。

 

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 ちなみにノベライズ版で表記を確認してみました。

 「己を責めたところで、死んだ者は帰らぬ。じゃが、生きている者は、死んだ者を己の中で生かすことができる。例えば、偲ぶことで……」(省略)「例えば、習うことで……」と昊天を見、「時には、習わぬことで……」と傑山を見る。「ほかには、ないかの?」

 なるほど。「習う」はこっちでしたか。先ほどまで迷っていなかった「かえる」ですが、「生き返る」の「返る」ではなく、帰宅する意の「帰る」でした。「帰らん」と表記する方が二度と帰ってこないという現実の辛さが文字から強く感じられます。一般的な漢字を使うことで、読み手の感情に直接訴えかける効果を狙っているのかもしれません。

 転生の場合だと、ぐるり巡ってかえってくる時に使う「還る」の方がイメージに合うかもしれません。「かえる」だけでも帰る、返る、還ると迷ってしまいます。

 音声言語が中心のドラマでは私たちの解釈の恣意性が保証されますが、文字言語の表記になると、書き手の恣意性に気づかされます。

 同音異義語が多いのは、日本語の特徴なのでしょうか。英語や他の言語だとどのようなニュアンスとして受け止められるのかなどを考えてみるのも楽しそうです。

 管理人はここ最近、「1日10分韓国ドラマを英語字幕で見る」というカオスな時間を己に課し、楽しんでいます(笑)

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太陽を抱く月 全20話

「太陽を抱く月」

韓国での最高視聴率 42.2%

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〇フィクション時代劇

 2013年、このドラマが日本で放送された時「時代劇あんまり見ないけどハマった!」などの感想がSNS等で多く見られたようです。それもそのはず、時代劇の演出を担当するのは初めてだというキム監督の下「幅広い世代に見てもらえる時代劇」をコンセプトに撮影されたのです。そのため、固定の時代劇ファンだけでなく老若男女を魅了しました。

 これは、時代背景こそ朝鮮王朝ですが、登場人物はすべて架空の人物というフィクション時代劇です。巫女(みこ)と王の恋というありえない設定をありえそうに見せる演出も面白さの一つでした。

「太陽を抱く月」という神秘的なタイトル通り、映像も神秘的な美しさがあり、音楽も素晴らしい。経費緊縮の中で撮影したとは思えない豪華キャストによる迫力ある演技も物語を支えています。

 〇太陽を抱く月の冒頭

 ラストが爽快なものばかりを好んで観てきた私としては、中々受け入れられない部分もありました。でも翌々観直してみると、原作が骨太の小説であるだけあってとても文学チックに作られているドラマだということが分かります。辻褄が合わない部分や不条理さが残ったが故、私の中で記憶に残る作品となったのです。時代劇に詳しくない人が観たらまるで現代もののように楽しめる作品ですし、不条理さをきちんと描くという意味では、とても時代劇らしい作品と言えるかもしれません。

 物語はこのようなセリフから開かれます。「太古の昔 空には太陽が二つ 月も二つあったそうです。そのため昼は暑すぎて、夜は寒すぎました。天地の万物が混乱し、民が苦しみにあえいでいた時、不世出の英雄が現れ、太陽と月を一つずつ弓矢で射落とすと、ようやく平和が訪れたと言います。」最後まで観た後にもう一度この冒頭の言葉を考えると、とても切なくなる作品です。 

 日本ではまだまだ、時代劇は年配の人が好み、大河ドラマは歴史好きが好むといった印象がぬぐい切れないかもしれません。そんな人こそ韓国ドラマを始めとした海外のドラマから時代物に手を出してみてはいかがでしょうか。日本に入ってくるドラマや映画などは、海外の視聴者を意識して作られたドラマなので当然サービス精神に満ち溢れています。分かりやすく当時の時代を教えてくれています。

 「太陽を抱く月」の世界観は、国境や言語を越えてきっとあなたを魅了することでしょう。

 

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参考文献

・カンヒボン『韓流時代劇でたどる朝鮮王朝500年』(加藤文明社、2013年)